大分県 予科練資料館

2024.3.30(土)

ここ数週間の間は戦争関連について見学していることから、今回は大分県大分市にある予科資料館を見学することに。

そもそもここの事をどうやって知ったかというと、大分県の宇佐にある平和資料館を訪れて『永遠の0』を観たくなって、見学したその日にレンタルビデオ店で借りて来てそのエンドロールで小さく大分予科資料館と表示されている事に気づいたのがきっかけです。

そこで、予科練資料館と検索すると…茨城県にある予科練平和記念館と出てくる…うーん、違うんだよなぁ。下にスクロールしていくとその下の方に出て来たが…来年の8月に閉館と書いてある…開いてみると、2024年の8月14日に閉館するという事だそうだ。

もっと詳しく言うと見学は5月下旬までと書いてある、聞くと2024年5月26日(日)に一応終わりになって8月14日に閉館となるそうです、その後は展示されている収蔵品を護国神社に保存されるそうです。

ホームページを読んでいると、見学は予約制で土日だけだそうで予約フォームから申請をしたが…特に返信もなかったので、電話番号を調べて電話してみるも「現在使われておりません。」だったので、直接行ってみる事にしました。

最近やっと桜が咲いてきて綺麗に咲いていました。

朝9時頃に来てみるも、開いていない…入り口のところにある戦闘機のポスターを眺めながら「やっぱり、予約しないとダメなのかぁ〜、でも予約フォームも電話もダメだったんだよなぁ。どうしたもんかなぁ〜。」と考えていると同時にもう帰ろうか思っていると、背後に人の気配を感じたので振り返ると自転車を押して下り坂のところにおじさんが立っていた。

どうやらここの方で、事情を説明すると快く見学をさせてもらうことに、でも偶然にもこの日は予約が入っていたので見学できたのだと思う。

鍵を開けていただき早速見学させてもらう事に、所狭しと貴重な資料や当時の物が置かれている。

この下の写真の赤枠で囲っている右側の子犬を抱いた写真は見覚えがあった、これは鹿児島県の知覧特攻平和会館で見た写真。

左の赤枠はそれをイメージ絵にして曲を作ったそうで、館内で流していました。

零戦の機体の外板の一部、ここの資料館の凄いところがこうして展示してある実物に触れることができるということ。

持ち上げてみたが、軽いそして薄い。

これはハンモックだそうで、これは貴重な品らしい…たしかにあまりハンモックを使っているイメージってないなぁ。

この下の写真の人間魚雷かどうかは分からないんですが、知覧特攻平和会館の所にも人間魚雷の資料と映像があったような気がする…人間魚雷のことは昔読んだ漫画『特攻の島』でちょっと読んだことがあったので存在自体は知っていたんだけど、実際に知覧特攻平和会館で見たので「これが、そうなの?」ってなった記憶がある。

コレがどうやら人間魚雷に取り付けられていた部品だそうで、これも貴重な品だそうです…というより、ここにある物全てが貴重な物で貴重な資料だと思う。

赤枠の部分に取り付けられていたそうです、ちなみにこれも持ち上げてみたのですが…コレは重かった。

こちらは120年ほど前の物だそうで、120年前の紙がこんなに綺麗に残っているのは凄いと思う、書かれている漢字も昔の漢字を使っていてちょっと読みずらいし意味を理解するのも難しかった。

スタッフの方が、団体見学が来る前にすごいの見せてあげるとガラスケースの鍵を開けて一丁の銃を取り出してくれた。

それがこの九九式という銃だそうで、この菊の紋と九九式の刻印が残っているのは珍しいらしく、そもそも残っていてもこの刻印が削られているものが多いそうです。

持った感じ3〜4kgくらいかなぁ、割とずっしりしていて銃先には短剣を取り付けて銃剣としても使用していたそうです。

潜水艦の窓ガラスだそうですが、分厚いです…コレも結構重い。

この手のガスマスクはいつ?何の用途?で使用していたんだろう?

こうして顔に当ててみたが、目のガラス部分はくすんでいて見えづらかった。

コレは神雷部隊の方の所にあった資料を読ませてもらった。

鼓舞するようなことも書かれていた…コレは最後のページだったと思うんだけど、鬼畜米英って…いや、それよりも字が綺麗。

神雷部隊ってこの後にも紹介しますが、前回宇佐平和資料館で見た『桜花』に乗って特攻していく部隊で、自分が同じ立場にいたらこんな綺麗な字なんて書けないと思う。

特攻直前に書いたかどうかは分かりませんが、桜花に乗る🟰確実に死ぬって状況…私なら手とかが震えてこんなしっかりし字はたぶん書けないと思うので、これを書いた方は覚悟が決まっていたんだろうか?それとも最後にある鬼畜米英とあるように欧米の方への恨みの方が強かったのかなぁ?

コレが桜花というエンジンを持たず、自分で飛び立つことが出来ない桜花。

たぶん、前回宇佐平和資料館の記事で誤った事を書いていたと思うので前回の記事は後に訂正します。

今回はこのような図と資料とスタッフさんの説明を聞きました。

この大型の戦闘機の下側に桜花を引っ付けて目的の戦艦近くまで運んで切り離して特攻していくということらしいです。

しかも、桜花を切り離すタイミングは大型の戦闘機のタイミングで切り離されるようになっているそうで桜花に搭乗しているパイロットのタイミング(自分のタイミングで)行けないってのもなんだか辛い話だなぁ。

最後にスタッフさんからこの国旗について教えてくれた。

本来は上まで上げている旗ですが、半分ほどの所まで下げるとか一番上から旗一個分下げたところで掲げるのは亡くなった方を尊重して旗を掲げているそうです。

色々教えて下さったスタッフさんと現在の館長さんありがとうございました。

ここで『予科練の群像』という本を購入して現在も読んでいる途中ですが、当時の方々の訓練時の体験とかを綴ったことを読むことですごい時代だったんだなぁ、今では考えられないなぁ〜と思います、理不尽に殴られたり気合いが足りんと棒で叩かれたりと…。

前館長さん川野喜一さんの言葉に「今日、自由と平和を謳歌することの出来るのは、彼等英霊の、身を挺して国に殉じた礎が、あったからだと確信している。」とある。

ほんとそうだと思う、彼等英霊の犠牲の上に今の平和な日本があると思う…これからも平和でありますように…。

最後に、このような資料館がなくなるのは非常に残念です😢

ここ予科練資料館は実際に使われていた品々に触れることができ、戦争の重みを肌で感じることができる唯一の資料館だと思う。

他の資料館では絶対に出来ない現物に間近で見て触れることができる唯一無二の資料館です。

閉館される前までに訪れることをお勧めします。

私ももう一度伺いたいです。

宇佐海軍航空隊跡

2024.3.30(土)

前回の続き、前回はこの宇佐市を訪れた時にはもう夕方で滑走路跡、耐弾式コンクリート造建物、落下傘整備所、エンジン調整場を見学すると時間切れになってしまいました。

今回もまた宇佐市に着いた時点でもう夕方…前回と同じような時間。

まずは爆弾池。

飛行場全域に排水をよくするために全域にコンクリート製の管を設置していたそうで、これは発掘調査で出土した物だそうで、爆弾池の中にはこの丈夫そうなコンクリート製の管が割れている物が出土しているそうです。

昭和20年4月21日の空襲でできた爆弾跡だそうで、直径10m、深さが⒈2m。

2階から見た景色ですが、この辺りは麦を栽培しているそうで5月下旬くらいには麦が黄金色になるのでそれは綺麗な景色が見れるそうです。

滑走路跡の近くにある掩体壕。

コレは零戦のエンジンだそうで、国崎沖で引き上げられた物だそうです。

一通り見て終わったので、トイレに行こうと思ってトイレに近づくと…そこにはパンフレットと台の上にファイルが置いてあったので、ファイルを見ていると….。

一台の軽トラがやって来た、軽トラから降りてきたおじさんは2台に積んであったパンフレットを補充し始めた。

そこで、少し話をすることになってパンフレットを補充するってことは教育委員会の方かなぁ?と思って聞いてみると…区長さんだった。

その後も色々と教えてもらいました。

あの掩体壕の奥の方の天井には昔の人の靴跡が残っているとか、この下の写真のブロック状になったコンクリートの塊は滑走路に使われていた物だそうです。

これも教えてもらった事の一つだけど、おそらくこの尾翼が収納される空間は学生たちが盛り土を作ってその上からコンクリートを流し込んで、コンクリートが固まってから盛り土を退けて作ったそうで、その証拠にこの空間の壁とかは凸凹していて、なるほど納得。

左側が奥の部分の凸凹が手作り感がある、右側は凸凹はなくきちっとした作り。

これが区長さんがおっしゃていた靴跡、盛り土を作った時に残っていた靴跡がコンクリートに跡になって浮き出ている状態です。

よくよく見ないと分かりませんし、普通に訪れてただ掩体壕を見に来ただけではおそらく気付かないだろうし、私も普通見てこの靴跡には気づきませんでした。

他にも色々と教えてくださった区長さんありがとうございました。

トイレの所にあった映画の看板…今度見てみようかなぁ。

宇佐市平和資料館と戦争遺構

2024.3.20(水)

中に入って受付を済ましてお勉強。

一番目立つところに映画『永遠の0』のポスターが…昔観たんだけどもう随分前の話。

もしかしてこの辺りのお話だったのか?

永遠の0を改めて観てみたが、劇中でもこの割れたゴーグルなんかは出てくるんですが、実際にあった物なんだなぁと思った。

これは『桜花』という機体だそうで、コレにはエンジンが取り付けられておらず自力で空に飛び立つことができない機体で零式艦上戦闘機に取り付けられて戦場に運ばれ、切り離されて戦艦などに特攻していく機体だそうです。

1−18と書かれたところより前の部分に1.2tの爆弾を搭載していて、切り離された後は後方に取り付けられていたジェット機で加速をして戦艦に突っ込んでいくという感じの代物だそうです。

出撃命令を待っていた時にアメリカ軍からの攻撃に遭い宇佐からこの桜花は出撃することはなかったそうですが、本土決戦に備えて桜花や零戦による特攻を行い829名の搭乗員が戦死したそうです。

この施設に到着した時間は4時50分だった、入館は4時30分までだったそうで…残念ながら見学はできませんでしたが、資料をもらい、この近くにあるという戦争当時の建物があるというのでみに行く事に。

この建物のところにあるコレを辿っていけば見れるそうで歩いて数分…。

アメリカ軍から受けた機関銃の弾丸痕。

ここはどうやらパラシュートを整備していた所だそうで壁に⭕️があることから重要な施設だったそうだ。

宇佐空の郷でさっきお会いした方に教えてもらった。

窓と窓の間にうっすら見える⭕️、他にも△もあるみたいです。

道路を超えた先にある施設、ここも重要な施設だったそうです。

豊後高田『昭和の町』

2024.3.20(水)

一部施設は有料ですが、無料で見学できるところもあります。

有料館内には昔の品々、特にオモチャ関連が多く展示されていて「あっ!これ懐かしい」と思わず声が出てしまう物もありました。

今度は商店街を歩いてみることに。

昔のガソリンスタンドだそうです、この裏手には空き地があってなんだかドラえもんのアニメで出てきそうな感じのドカンにベンチに空き地という感じでいい感じの空き地でした。

この施設内には昔のお金などが展示されていました。

昔のタイプライターなんですが、これが…もうすごい。

逆向きに文字が配置されているうえに一個一個の文字が小さい…よくこれを打っていたと思う。

うろ覚えだけど、昔はこのタイプライターを打つのに試験に合格した人しか触れなかったとか…しかもそんなに多くの人が扱えなかったとか…。

大東亜戦争で日本が領土を拡大しているときに発行された現地の紙幣だそうです。

よくこれだけ綺麗な状態で残っていたなぁと思う。

この施設の中で放映されている昭和35年から数年の間の映像がなかなか興味深く見入ってしまった、昔はこんな面倒なことを手動でやっていたのかとか今は当たり前にある機械が昔はなかったことからこんな苦労をしていたのかと衝撃を受けた。

電卓らしいですのが…これどうやって使うんだ?分からん

宇佐神宮

2024.3.20(水)

宇佐神宮に到着した時にちょと雨が降り出しました、しばらくすると止んだのでお参りへ。

八幡社の総本山だったんですね、知りませんでした。

一度は見てみたいと思う流鏑馬…見にこようかなぁ、でもすごい人なんだろうなぁ。

左の鳥居から上に行くことに。

この石を持ち上げて力比べをしていたそうだけど…90、120、140kgって持ち上げられるの?

ん!?大修理?嫌な予感が…

うわぁ!でたよ!!お得意の写真です…なんかもうここまでくると逆にラッキーなんじゃないかと思えてくる。

修復期間は令和七年二月末までだそうです。

お参りの様子を見ていると、「パン、パン、パン、パン」と拍手の音が…

ここでは『二礼四拍手一礼』のようです。

お守りと願掛け瓢箪絵馬を購入して願いを書いて、大きい瓢箪に入れて奉納しました。

白鹿権現

2024.3.20(水)

今日も昨日に続き大分県の観光。

朝イチで向かう場所は『白鹿権現』。

Googleマップで検索してみてみるが…道路が表示されるだけで、それらしきものはなかった…ストリートビューを見てみるも道路とガードレールがあるだけガードレールの先は崖になっていた…考えても仕方ないのでとりあえず行ってみることに。

白鹿権現の先に鳥居のある所に車を停めていざ出発。

鳥居をくぐり下っていくが…この下りが結構急で、帰りのことを思うとゾッとする。

見ての通り道は狭いです。

何やら建物が見えてきた。

さらに下っていくと看板が見えてきました。

この鳥居を抜けてその先なのかな?ととりあえず鳥居をくぐり橋を渡る。

その目の前には…

柱状節理っぽい…石のことはよく分からないが、これを初めて見たのは宮崎県にある高千穂という地域でのことで、これが自然にできるというのが不思議でならなかった。

すごいんだけど…そんなことよりも…白鹿権現はどこだ?右往左往しながらも分からない。

一度冷静になって柱状節理の所の橋の所に『白鹿権現』の矢印付きの看板が鳥居の方を指している、ということは…橋から鳥居のところにある看板の間?

地図アプリを開いて自分の位置と状況を見てみると…白鹿権現は川沿いにちょっと下流に向かったところにあるみたいだ。

鳥居のところにある看板のすぐ隣を道?らしきものがああるので進んでみることに。

すると、行き止まったところに鎖場が…「えっ!ここいくの?」予想に反した鎖場だったので驚いた。

第二の鎖場。

ようやく到着…なんだか神秘的な場所だった。

まずはお参りを…数年前のお話だけど、とある地域でお仕事をしていた時に出勤すると入り口に鹿の首が置いてあった。

地元の猟師さんが朝早くに仕留めて持ってきていたそうで、それを見た私は角を持って顔の前に持っていって写真を撮ってもらったりした、当時ちょうど鬼滅の刃が流行っていて「なんだか猪之助みたいだなぁ、いやどちらかというと鹿男青によしか。」みたいにふざけて遊んでいた、そのお昼には鹿肉をいただきました、美味しかったです。

ただお肉を頂くだけなら良かったんだけど…顔に当てがって遊んでいたのはいただけなかったなぁと思い今回は懺悔してきた。

しかし…すごい数だなぁ。

この骨は猪っぽいなぁ。

立派な角です。

この白鹿権現について地元の方にお話を伺ってみたかったんだけど、朝が早いということで集落に人の気配がなかったのでそのまま次の目的地に向かうことに。

アントニー・ゴームリー

2024.3.19(火)

今回は大分県の国東半島にある一体の像について。

もう随分前に職場の方に「国東半島の山の中にポツンと像が立っているところがあるんだよ。」と教えてもらっていた。

しかし…その像だけの為にわざわざ訪れるのはなぁ〜と思って時は過ぎ、大分県でどうしても行ってみたい場所が数箇所あったのでついでに立ち寄ってみました。

この看板は民家を抜けた先にある分かれ道の所にあって、この看板を右に行くと45分くらいの登山道を歩いていくみたいになっているそうです。

今回は到着したのが夕方で日が沈みかけていたので看板を左に曲がって車で近くまで行くことに。

駐車場に到着したのはもう6時を過ぎていた…階段を急ぎ登った。

5分後…到着。

写真で見ていたけど…シュールすぎる。

ここは足場が悪いので足元に注意しましょう。

「いや、いや、説明これだけ?」2013年の作品なんだ….。

ということで、後日『アントニー・ゴームリー国東半島』で調べた結果…アントニー・ゴームリーは1970年代にインド、スリランカで仏教について深く学び自信をかたどった鉄の鉄の彫刻を作るようになったそうです。

鉄でできているので、錆びたりしていずれは自然に帰っていくというコンセプトみたいです。

いやぁ〜しかし、「ここまでの道中運ぶの大変だっただろうなぁ〜、いやヘリで運んだのか?」と思いながら像を見たり写真を撮っていました。

しかし、帰って調べていると…像の高さが191cm、体重629kg…だそうです…「えっ!あの像600kgもあるの!?マジでどうやって運んだんだ?…いや、それよりも模して作ったってことはアントニーってそんなでかい人だったんだ。」

読み続けると、櫓を3箇所作ってロープウェイの様にして運んだそうだ。

それ以外の作品も調べていると…「あっ!これどこかで見たことある!」って作品が出てきたその作品名は『エンジェル・オブ・ザ・ノース』ここではその写真は載せられないが、どこかの美術館のポスターだったか、テレビだったかなんかの美術雑誌だったかはもう記憶が定かじゃないんだけど…その当時その作品を見た瞬間に「いや、これ、ジブリアニメの天空の城ラピュタに出てくるロボットじゃん!」と心の中で突っ込んだ記憶があるのがあったので記憶に残っていた…しかし、あの作品の作者がここの銅像と同じ作者だったとは。

明るいうちに車まで降りてきて暗くなるのをちょっと待ってから夜間撮影してみることに、しかし、今日は月明かりがあってちょっと撮影が難しかったですが行ってみることに。

岩下コレクション

2024.3.16(土)

由布岳登山の後にせっかくなので湯布院観光をしようと思って、ちょっと来てみたかった岩下コレクションにおじゃましました。

入り口から入って受付の正面にあるこのステンドグラスはなんでもダイアナ妃の生家のものだそうです。

一階には懐かしい品々が展示してありました。

あのゾウの置物とか薬局の入り口とかにあった様な気がするなぁ…

他にもカメラ、時計、雑誌、フェラーリなどを展示していました。

2階に上がる所に壊れた石膏像があって、説明がありました。

頭が空っぽくらいの方がちょうどいいのかも。

高倉健さんのコーナーがありましたが…私は健さんの作品は見たことがないので、うーんって感じでした。

なんか健さんの作品って任侠みたいなイメージがあるのでみる機会がないんだよなぁ。

そういえば『ぽっぽや』に出ていたんですね、これは今度観てみようかなって思いました。

戦争の資料ゾーンには戦争に徴兵される赤紙がありました、当時の人はこれをどういう気持ちで受け取ったんだろう?

これが届いた瞬間に死を覚悟して家を出たのかなぁ。

バイクゾーンです、まずはホンダ。

この軽トラは本田宗一郎がこだわって作ったらしくて、エンジンにDOHCを採用していることから本田宗一郎の本気度が窺える。

随分前から欲しいなぁと思っている一台『モトコンポ』随分前の話だけど…その当時ですら20万円くらいしていたんだよなぁ…発売当時は8万円くらいだったそうです。

このバイク懐かしいなぁ…昔乗ってたんだけどその当時ですらもう部品があまりなくなってきていて壊れないように気を遣いながら乗っていたなぁ。

これは競技用の車両ですが、一階のトイレにはこのTYスコティッシュもありました…しかし、トイレにまで展示しているとは思わなかったのでビックリしました!!

この写真だけでは何?ってなるけど、これはロールスロイスのエンジンを撮ったんだけど…本当にデカくてこれが本当に道路を走っていたのかと思うと信じられないって感じです。

7000ccの直列6気筒!!1気筒あたり1166cc!!すげぇ!!

こんなバイクは見たことないしすごく斬新!

中日本重工業?知らん!聞いたこともない!ってか1948年って戦後数年後に作ったバイクなの?

よくこんな綺麗な状態で残っていたなぁ。

3階への階段の手すりが左右で違っていて、たぶんそれの事なんだろうなぁ。

階段を上がって見ていると、黒い箱が見えたが…その正体はデカイスピーカーでした。

この自転車にエンジンが引っ付いたバイク…すごく有名な自動車メーカーの名前が入っています。

ニッサン!?えっ!ニッサンってバイクも作っていたの?

これは知らなかった!

そして、この岩下コレクションの最大の目玉商品『ドゥカティ アポロ』なんと世界に一台だけというバイクだそうです。

マンガ『ばくおん』というバイク漫画でも紹介されているそうです、ドゥカティ信者が崇め奉っているシーンがあるみたいです。

しかし気になるのはL型4気筒ってどんな音なんだろう?

気にはなるが…世界に一台もちろんパーツもこれっきりしかないのかと思うとエンジンの音を聞きたいですとは言えないなぁ。

帰る直前にステッカーを購入した時に、偶然にもここのオーナーさんとお話しすることができました。

オーナーさん曰くまだまだやりたいことはいっぱいあるとおっしゃていました、「今日も朝から作業をしていてズボンに穴が空いた」ということも言っていました。

面白くて気さくなおじいちゃんって感じなんだけど…まだまだやりたいことがあるって夢を聞いた時にはすごいバイタリティだなぁと感心した。

生きるってこうだよなぁ〜と思った、またオーナーのやりたいことが実現できることを祈っています。

バイク好き、古い物好き、ドゥカティ信者の方は是非訪れましょう!!

大分県 中津城

2024.3.3(日)

前回の続きという事で、今回は大分県にある中津城に行って来ました。

まずは資料館でお勉強…うむ、なるほどなるほど。

奥平?細川じゃなくて?

…まぁ、それはおいおい。

今日は3月3日ということでお雛様を飾っていました、もちろん城内にも。

出ました!!鳥居強右衛門!!

昨年のNHK大河ドラマ『どうする家康』でも鳥居強右衛門のお話の回があったのが印象的でした。

しかし…なぜここで強右衛門?

1575年に織田、徳川の連合軍と武田勝頼の戦い『長篠の戦い』がありました。

その長篠城に籠っていたのが奥平家で、武田軍に包囲されていた長篠城から徳川家康への援軍を求めるために岡崎城へ使者を送ることにした。

その時、この命懸けの使命を自ら応じたのが下級武士の鳥居強右衛門、無事に岡崎城について家康、信長からの援軍が数日後に向かうことを知った強右衛門は踵を返し長篠城に戻ります…ゆっくりしていればよかったのに。

長篠城に到着前に武田軍に捕まり、長篠城に向かって「援軍は来ない、あきらめろ」と言えと武田に言われたが、強右衛門は「数日のうちに援軍が来る」と言ったので、怒った武田勝頼に磔にされ処刑された、というのが鳥居強右衛門のお話でした…簡単にですが。

天守からの風景です。

官兵衛もここからの景色を見ていたんだろうなぁ。

お城の図を見ても思ったけど、ほんと地の利を生かしたお城の築きかただよなぁ…。

降りて来ました、この堀は隣の河川と繋がっているそうで干満の差で堀の水量が変化するそうです。

このお城の石垣は既に使われなくなった別のところのお城の石垣を川を利用して運んできて再利用しているというのが、さすが官兵衛ってところですよ!

結局、再利用つまり既に加工された石をそのまま使うことができるという加工する手間を省ける船で運ぶから容易…さすが軍師官兵衛!!…マジで頭いい。

この石垣の説明は城内にもあってちょっと見てみたいと思って来ました。

ここの石垣はくっきり線が引かれたように積み方が違っていて、実に面白い。

右側の石垣は黒田時代の石垣で、左側の石垣は細川時代の石垣だそうです。

中津城の駐車場を少し出た所に博物館があるそうなので行ってみる事に。

博物館で流れていた資料でこの石垣の説明がありました。

説明曰く、どうやら官兵衛時代に築いた石垣の上に更に1.2m高くしたそうで、幅も広くしたそうです。

つまり、石垣上面から下1.2mは継ぎ足された石垣で、そこから堀の水面までは官兵衛時代の石垣だそうです。

石垣を内側に向かって厚くした跡だそうです。

この石垣の説明もあったんですが…ちょっと忘れちゃった。

でもたしか、この石垣は左下にある大きな石を置く事で威圧的に見えるように的な事だったような…この大きい石は実は奥行きがなく薄いそうだ。

資料館の資料などを読んでなんとなく黒田官兵衛の動きが見えてきた、官兵衛が動く事によって細川が、奥平がということもなんとなく見えてきた。

九州平定後、豊臣秀吉から豊前6群を貰った官兵衛は中津に城を築き、宇都宮鎮房を討った後に家督を長政に譲り、天下分け目の決戦で手柄を立てた長政が筑前52万石を与えられ福岡に移って、福岡城を築く…その空いた中津城に細川家が入る…その後に小笠原、奥平と続くそうだけど…うんうん。

そういえば前に小倉城に行った時に細川忠興とか小笠原の資料があったような…。

まぁ、今回は黒田官兵衛…大河ドラマでも、お城で流れていた映像でもとっても印象に残るシーンがあって…というのが、関ヶ原の戦いで活躍した長政が家康から握手を求められた時に官兵衛が「それは右手であったか?左手であったか?」という問いに長政が「右手でございます。」と答えた時に官兵衛は「その時、左手は何をしていたんだ?」というやりとり。

いやぁ〜、さすが軍師官兵衛。

でも結局残念なことに、関ヶ原の戦いが起こることを予想して九州を制圧し始めて兵を増やして関ヶ原に行く予定だったのに、関ヶ原の戦いが息子長政などの活躍もあり1日で終わってしまった…これがもし数ヶ月にも及ぶ戦だったら、長政が左手で家康を屠っていたら天下を黒田が取っていたかもなんて考えたりするのも面白かったです。

このお寺は『合元寺』通称『赤壁の寺』と呼ばれているそうです、このお寺もお城で見た資料にあったので来てみた。

なぜ赤壁の寺と言われているかというと、宇都宮鎮房を中津城で長政が殺した時に鎮房の家臣はこの寺に待機していたが鎮房が殺された後に急襲され戦いになり、その時の戦闘によって血が壁に付き何度白く塗り直しても血が付着した壁に何度も赤く浮かび上がってくるという事で壁を赤く塗ったそうだ。

合元寺から少し歩くと、福沢諭吉旧居に着いた。

この藤はちょっと見たかったなぁ…もう少し後ですね。

中津と言えば唐揚げだそうで、唐揚げ弁当をいただきました。

美味しかったです。

今回の旅土産。

福沢諭吉館でアンケートに答えて貰ったマンホールのカード。

この切り絵がなんだかカッコよかったので購入しました。

官兵衛の御守りで赤と青色があるんですが、私は赤を購入。

赤は官兵衛の甲冑の色で、青は着ている着物の色だそうです。

中津市歴史博物館で購入した土器風の焼き物。

諸田遺跡の甑(こしき)をモチーフにしている、取っての形から『ぴょこ』ってあだ名がついているそうです。

これも展示されていたんだろうけど…時間がなかったので本物は見ていないんだけど…また時間がある時に見に行きたいなぁ。

大分県

2017年7月29日 血の池地獄。

分かりにくいかもしれませんが、間欠泉です。

この色の池を見た時は衝撃だったなぁ〜。

で、近くで見てみると…あぁ、こうなっているんだぁ〜ってなりました。

ネタバレになりますので、自分の目で見て見たいという人はここから先は読まないようにしてください。

これで一応、北の青森県から始まった旅日記は終了なんですが…番外編ということで、明日からもうすこしだけ日本編にお付き合いください。

本当は明日から海外編を書いていこうと思っていたのですが…10日ほど先の話になりそうです。

あの池の赤というのは、底に溜まった泥で水自体は透明なんです。

私は遠くから見た瞬間に水自体があの色なんだと思ったのですが、違っていたんです。